西郷 公子 氏(神奈川新聞 県西総局長・前川崎総局長)
西郷さんは入社29年目、神奈川新聞川崎総局の総局長として、紙面編集のアシストや連載企画、営業や事業の支援、短信情報処理等支援、記者経費等の総局全般の管理をしています。管理職になり、人員管理が中心であり、記者の過重労働への配慮を求める部署と、いい紙面づくりを望む部署との間に立ちジレンマに陥ることもあるといいます。また、人間関係は業務遂行に影響を与えることから局内の円滑なコミュニケーションも重視しています。記者職は、夜勤、休日出勤、残業、宿泊等もあり、男女ともにハードな仕事。男性を含めたワーク・ライフ・バランスをどのように確保するかが課題だといいます。
(H25年10月インタビュー)
現在、どのような仕事をしていますか。
総局長になってもうすぐ2年になります。主な業務は、(1)編集系の紙面アシストや連載の企画、(2)営業・事業支援、(3)寄託や短信情報処理支援、(4)記者経費など総局全般の管理です。紙面アシストについては、長期の病欠などで記者が抜けた場合には休日のローテーションに入ることもありますし、川崎版の連載企画を立てたり、いま連載している隔週6種類の連載記事のチェックや出稿などを行ったりしています。人繰りがつかなければ日々の記事を書くこともありますが、基本は記者が書き、私は必要に応じて短信を書く程度です。また、何をどのように書くかの判断等は原則編集キャップがしつつ、キャップを含め各記者が出稿する原稿の確認や記事の扱いを決めるのは本社デスクがしています。総局長はその間を補完する仕事、社会情勢に応じた紙面づくりで何かあれば方向性を記者に助言したりする立場です。営業面では、広告社員から選挙広告を提案したいとの相談を受ければ、可能性のありそうな営業先の情報を提供したり、寄託については、浄財を寄せてくださる方々の応対から記事の執筆、掲載基準の判断、台風接近などで突発的に宿泊が必要になれば宿泊費や交通費など、取材経費の判断や管理したりもします。地震など災害に備えた備蓄品や通信手段の管理など事務所管理も仕事の一つです。このため、本社と調整しながら、年間の総局予算の立案なども行います。前任の本社文化部長は、総局と同様、予算管理や文化部の紙面計画などさまざまな仕事もありますが、明日の紙面をつくる編集会議への出席など編集局全体にかかわる会議なども多く、若干性質が異なっています。どちらかといえば、川崎総局は小さな本社のような体制で、編集局、販売局、営業局、経営管理局など、本社で個々に分かれている部署すべての仕事に絡み、部下はそれらの部局の部長級・課長級のもとでも働いている形でもあります。そのような中、総局長は社長直轄という少々複雑なポジションでもあるため、命令系統や連携などの流れも複雑化しています。
入社後のキャリアについて教えていただけますか。
1985年に入社しました。男女雇用機会均等法施行が1986年なので、その「前夜」の採用です。最初は警察を担当し、相模原エリアの担当もしました。その後、記者以外の仕事として、入社4年後に横浜銀行の総研に出向しました。そこで1年間、都市計画や自治体の総合計画策定に関する調査や研修に携わりました。
その後、記者に戻り、90年代に経済部と文化部、その後東京支社で国会や東京証券取引所の担当、厚木支局長、整理部記者を経験しました。2000年代前半は報道部デスクなどを2年半、営業局営業戦略室を2年ほど経験し、2007年には川崎総局で支局長兼編集キャップを1年9ヶ月ほど経験しました。その後、文化部長兼論説委員、2012年1月に川崎総局長として川崎に戻り、今に至ります。
スキルアップはどのように図ってこられたのでしょうか。
記者以外の仕事を経験したことでしょうか。希望したことではないのですが、営業局営業戦略室へ出たことは財産になっていると思います。いわば記者職から営業職への転身です。広告を提案するために企画書を幾つも書き、横浜開港150年の時に戦略室として発行していた「横浜開港新聞」の関連広告を掲載していただく企画も立てました。そのことは、訴求するスポンサー、新聞社が誰に支えられていたのかを見直すきっかけとなりました。総局長になってからは企画を書いたりはしていませんが、いざとなれば企画書も作ることができますし、クライアント探しのための情報も提供できます。
また、これも自分で希望したことではないのですが、横浜銀行の総合研究所への出向させていただいたことも、今の仕事にとても活きています。表計算ソフト、新聞データ検索、グラフィックソフトなど当時としてはかなり先進的なIT(情報技術)を使わせていただいたことが、その後ずっと情報化にさらされている新聞社の仕事にもメリットがありました。
管理職となり仕事に対する受け止めや心境はどのように変化しましたか。
文化部長時代から、例えば選挙や甲子園予選の際などに人繰りに関する調整は管理職の仕事としては大きいと思います。派遣要請で誰に行ってもらうか、人数は何人出せるか、部内や総局内の調整はもちろんですが、編集局長や他部長との調整も増えました。オーバーワークにならないよう考えつつも、時期によっては仕方ない場合もあるため、その意味では女性は働きにくいかもしれません。ジレンマとしては、経営管理局は時間外管理を望み、編集局はいい紙面を望んでいますので、どちらにもかかわるポジションの管理職としては悩みどころです。
ワーク・ライフ・バランスについて、仕事以外のプライベートはどのように
過ごしていますか。
仕事以外では、なんといっても愛犬でしたが、1年近く前に死んでしまいました。朝の散歩や休日は常に犬とともにあった10年でしたので、少々気落ちしています。また飼おうか迷っているのですが、2月1日付で県西総局長になり、通勤が今の倍以上になりそうなので諦めています。今は、この仕事をする前から趣味だった絵画鑑賞ぐらいでしょうか。美術館でのひとときは非日常空間のシャワーを浴びたようで好きな時間です。あとは小説でしょうか。最近は、昭和史系の証言にも手を出しています。あと、韓流時代物ドラマも結構趣味です。
社内の風土、仕事と子育てをめぐる状況について教えていただけますか。
子育てしながら働く女性記者、社員は増えつつあります。つわりがひどければお休みしてもらうこともありますし、編集局として、泊まり勤務や夜勤などの残業のローテーションから外すなど配慮しています。なかなか難しい面もありますが。実際にお子さんを保育園に通わせ、仕事の効率を上げながらほぼノー残業で勤務をされている女性記者もいますし、複数のお子さんがいる女性記者もいます。皆、スピード感をもって仕事をしていると思います。
男性社員の子育てへの参加については、有給休暇を消化する形で、数週間ほど育児のために休んだ男性記者は数名います。
子どもを持ちながら働きやすいかというと、この仕事はまだまだ、女性が働きやすくはないように思います。男性も大変な仕事ですので。女性記者が増えていくにつれ、男性記者も含めたワーク・ライフ・バランスをどう確保していくかが課題だと思います。記者が増員できるならいいですが、夜勤ができる人が減っていますし、休日出勤、残業、泊まりなど、どのようにローテーションを組むかは課題だと思います。仕事上で経験してほしい時期に出産、育児など経験できないということが、キャリアアップで生じてくる可能性もあります。
業種特性から、女性が活躍しやすい環境でしょうか。
古い話を持ち出して恐縮ですが、神奈川新聞の前身の横浜貿易新報時代、正確には大正5年(1917)から20年間にわたり、横浜貿易新報の「婦人と家庭欄」に歌人の与謝野晶子が寄稿しておりまして、800近いコラムで晶子は女性を叱咤しその自立を勧め、政治にもの申して、自由教育を説いています。その晶子さんが当時婦人の新しい職業として、何がいいかと聞かれ、「もし見識があって、筆が執れたら、新聞記者が男にも女にも最上の職業であろう」(出典「4万号の遺伝子~神奈川新聞120年」神奈川新聞社刊)と言っているそうなのですが、私も彼女に1票入れたいと思います。仕事は確かに厳しいところはありますが、力を持っている人や組織をウオッチして伝えるべきときに伝える、社会の中でなかなか言いたいこともいえず弱い力ながらも変えようとしている人を代弁するなどの面で、女性も参加すべきと思いますし、意欲があれば舞台は待っています。どんな仕事でも楽をしてできる仕事はそう多くはないと思いますから、新聞記者だけが大変ということでもないでしょうし、ただ、やりたいと思う女性自身、すでに職についている女性自身の手で活躍しやすい環境を一緒につくっていきたいと考えます。
今の職務において、大切にしていることがあれば教えてください。
総局内のコミュニケーションを図ることでしょうか。編集・取材・企画方針について個人の課題をどう捉えていくかを話し合い情報共有すること、そのような環境をつくり、意見をまとめていくことを非常に重視しています。人間関係がうまくいかないとすべてがうまくいかなくなります。報告や連絡をメールでするのか口頭でするのか、ひとつとってみても考え方はさまざまです。
編集方針を立てても思うようにいかないこともあります。会議でいいと思っても原稿が出てこない場合もありますし、つまらないと思っていても取材をしたらすごく面白くなるケースもある。記者の仕事は、あまり偏見をもたず人の状況、立場を見極めて話を聞くことが大切ではないでしょうか。対象者が激高することも覚悟で取材しなければいけない場面もありますけれど、相手を尊重する気持ちを持ちつつ、対峙すればなんとかなるものだと思います。原稿の書き直しなどはデスクが指示する立場にあるので、総局長の私は、人育てを重視しています。
今の仕事に就いた経緯を教えてください。
実は最初、英語教員になりたいと思っていました。でも社会学も学びたかったので、英語教諭の免許を取得できて社会学も学べる大学に入り直しました。その後、教員採用試験を受けつつ新聞社を中心に就職活動をしようと、スクールに通いました。そこで出会った元読売新聞社の黒田清さんの講義に感銘を受けたのが、ジャーナリズムを志すきっかけとなりました。そこで黒田さんが「新聞は家族を守るためにある」とお話され、「あ、そうなのか」と思ったんです。昭和20年代から40年代にかけ、交通事故死者が1万人以上に達した交通戦争の現状を、どうしたらなくせるのかを考えて書くこと、戦争が家族の幸せを壊したり就職や結婚で人が人を差別したりする現実を伝え書くことが新聞の使命である、と。なるほど、それならできるかも、と思ったのがきっかけです。
なぜこの仕事を続けてこられたのでしょうか。
一度やったら辞められない職業なのではないでしょうか。何かしたいと思い、調べ、心ある原稿を書けば読者20万人から反響が戻ってくるのです。これほど楽しいことはありません。例えば運動部の記者だったら球団の優勝を一緒に体感したり、感動したりできますので、地元紙の記者としてはこれ以上ない喜びになります。ちょっとした社会的な課題、問題提起でも書くことが新しい動きへとつながったりしたならば人生は感動的です。自分の書いた原稿がほんの少しでも何かを後押しする力になるなら、それはもう本当に楽しいことです。
これから手がけていきたい仕事があれば教えてください。
男女が働きやすい会社づくりのために頑張りたいところですが、ペン、筆をとることも押さえがたい、それが今の素直な気持ちです。このまま管理の道を歩むなら、若い記者が少しでも働きやすい環境を整えることができるよう、力を出していくことができればと思っています。
これからの女性たちへメッセージをお願いします。
この業界に入りたいと思っている女性に対して、ということでいえば、インターネットだけではなく、さまざまな活字に触れること、感情的なもの、論理的なもの、どのようなものでも構わないので本や文献を読み通し考える力を蓄えることを強調しておきたいですね。自分が興味のある分野の小説や論説を本気で読みとおして考えることは、理解力や考える力が養われるのではないかと思うのです。健康で、柔軟性があって、コミュニケーションが図れる人であるかどうかを社会というか会社はみています。何か派手にPRする必要はありません。それはどの仕事においても対応できる力を養い、財産になると思います。