丸子橋卓球スタジオ 代表 新井卓将さん
新井さんは今から13年前に丸子橋卓球スタジオを立ち上げ、現在もインストラクター兼、テレビ出演、CMの監修、卓球関連の様々なパフォーマンス活動に携わり、その活躍は多岐にわたっている。
メディアを通して卓球を広めたい
スタジオを運営する中で特に気を使っていることは「体調管理」だと話す。以前身体の不調を押してレッスンを続けた際、無理がたたって故障してしまい、2ヶ月休まざるを得なくなった。「精神的にも金銭的にもこのときは辛かった」と話す新井さんの表情から、当時の苦労が想像できた。その時にレッスン以外で働ける方法を作ろうと、メディアの仕事も始めたそう。YouTubeで新井さんのお名前を検索するとたくさんの動画が出てくる。「卓球をやっている人もやっていない人もまた始めたいなと思うきっかけになってほしい」と語る。YouTubeに動画をアップすることで「卓球の面白さや可能性を伝えたい。誰かに勇気や希望を持ってもらえれば」と話す。
きっかけは恩師の突然の死
そんな順風満帆な活躍を続けている新井さんの現在とは裏腹に、過去は険しいものであった。高校の時、進学がかかったインターハイを目前に右手を負傷。進学してプロコーチの道に進もうとしていた新井さんは、左手でラケットを握るも県予選で敗退してしまった。推薦が取れず希望していた大学進学は叶わなかったが、実業団入りし日本リーガーとして選手活動をスタート。その矢先に肩付近の病気により選手活動を断念せざるを得なくなってしまう。1度ならず2度までも故障や病により行く道を阻まれた新井さん。それからは自暴自棄に陥り卓球の道からは完全に離れてしまった。しかしその数ヵ月後にお世話になった恩師の死を目の当たりにしたことから、新井さんは「先生のような卓球指導者になりたい」と卓球の世界に戻ることを決心。そして恩師の道を引き継ぐようにインストラクターになることを志した。
前向きに挑戦し続ける姿勢
しかし、新しくインストラクターを募集しているところはなかなか見つからず、卓球スクールへアルバイトとして、掃除などの雑用から入り、必死に努力した。その結果1年後ようやく正式に採用された。しかし新井さんに更なる不運が襲い掛かる。入社後すぐに今度は交通事故により右手に重症を負ってしまった。新井さんはやむを得ず休職。5回の手術、右腕を50針も縫い、リハビリ、入退院を繰り返しながらも、フリーのインストラクターになるという強い気持ちから、後遺障害が残るも卓球の世界に復帰した。
入院生活中は、身体が動かせないため、とにかく理論を勉強。復帰後は、卓球の多彩な技を練習した。卓球の特徴として、シェークハンド、ペンホルダーの大きく分けて2種類のラケットのタイプがあり、その違いによりプレースタイルが変わってくる。通常ラケットやプレースタイルを変えることはあまりないそうだが、新井さんは6年かけてすべての技術を習得。ラケットやプレースタイルにこだわらないことで、多方面での活躍の機会を得た。今ではそれが大きな強みになっていると語る。
卓球だけでなく、仕事についても「現存する職種を二つ三つ組み合わせることで新しい価値が生まれる。可能性を広く持ってほしい。」と語っていた。未開拓の分野に挑戦し、行動を起こすことで新しい価値が生まれる、というのが新井さんの持論だ。
新井さんは怪我があったからこそ今があると話す。「何度も困難が訪れ、神様に卓球をやめろと言われていると思ったこともある。でも売られた喧嘩は買ってやろう、この困難を乗り越えることで、誰かを勇気付けられるかもしれない。」と考え、前向きに進んでいったことが今の新井さんに繋がっている。
「スタジオで1人でも多くの人に卓球の上達のヒントを伝えたり、卓球の楽しさ、卓球を通しての健康を伝えて、笑顔になってもらいたい。YouTubeやメディアを通して、会えない人にも卓球のおもしろさを伝えたい。選手だったときは、今が現役で、引退して指導者になると考えていたけれど、自分にとっては指導者をしている今が現役。」と語る新井さんの目は、次なる可能性を見据え、輝いている。
編集後記
右腕を三度も負傷し後遺症が残っているにもかかわらず卓球を続けている新井さんから、困難にもめげず高い壁にぶつかっても、挑戦し続けることで、新しい発見を見いだせることを学びました。また、今回の取材で「強い希望を持って、諦めないで挑戦する気持ちが大切」という、仕事だけでなく生きる上で大切なことを新井さんの人生から実感させていただきました。
取材日 平成27年8月25日 取材者 山路彩月 松田晴英 溝口未桜