全国に43ある競輪場のひとつが、川崎市にあります。川崎をホームバンクとし、平成29年3月までガールズケイリン第1期生の選手としてご活躍された高松美代子さんにお話をうかがいました。
専業主婦、小学校の教員を経て、50 歳から競輪選手になった高松さん。現在は、女性としてはじめて、指導的立場に就かれています。そのユニークなキャリアのお話のなかに、「輝く自分を見つけるヒント」がありました。
※平成29年6月20日開催「川崎で輝く女性たち 女性が語るトークサロン」の内容を再構成しています。
女子競輪からガールズケイリンへ
「ガールズケイリン」をご存知ですか?平成24 年に始まった、新しい競技です。しかし、女性と競輪の歴史は意外と古く、戦後すぐ昭和20 年代まで遡ります。男子競輪が始まったのは昭和23 年。その翌年には女子競輪が始まりました。
当時は宅配便がなかったため、自転車と3 日分の競技の用具を持って夜中、夜汽車に乗って出掛けていくという大変な時代だったそうです。そのような中で、200人ほどの女子選手が全国の競輪場を巡って戦いを続けていましたが、当時女子選手は強い方ばかりが勝ったり、結婚・出産などで選手を続けられない方もいたりしたため、賭ける対象になりにくくなりました。そういったことが重なり、女子競輪は徐々に下火になっていき、昭和39年に廃止されました。
その48年後の平成24年7月。平成20年からエキシビションとして行われていたガールズケイリンの名称を引き継ぎ、プロスポーツとして復活しました。ガールズケイリンは女子競輪と違って、とてもカラフルです。車番に沿った7色のウエアに、ピンクのレーサーパンツ。自転車はカーボンという軽い素材でできており、フレームを選手が好きな色や模様でカスタマイズしています。車輪にも車シャバン番に沿った色のホイールを装着。男子競輪にはない色鮮やかな装いで、新たな歴史を刻み始めました。
主婦、小学校の教員を経て、競輪選手へ!
競輪選手になったきっかけは37 歳になった時に、夫と一緒に趣味で始めた自転車です。私生活では二人の娘の母。子育てがひと段落ついたころから、自転車をはじめ、マラソン、トライアスロン競技を楽しんでいました。自転車は競技人口が少ないので、大会に出ると表彰台にすぐ手が届きました。水泳もマラソンも競技人口が多いので、大会に参加しても参加賞しかもらえない。でも、自転車だと賞品がもらえる。それを子どもに見せて自慢できるということでちょっとずつのめり込んでいきました。
ある日、ガールズケイリンの復活を知りました。専業主婦を経て、当時は小学校教員として働いていました。あと10 年は先生のままでいられましたが、もっと自転車をやりたい!という気持ちが出て、競輪選手を目指すことを決心しました。もちろん迷いもありました。第二の人生をスタートしても良い時期かな… 自転車は趣味のままでもいいけどなあ… いや、でもなあ… という迷いの中で、難しい方、誰でもできるわけではない方を選ぶことにしました。48歳の時です。
日本競輪学校への入学には、年齢制限がありません。何歳でもチャレンジできる――。そんな環境に惹かれて競輪選手になろうと思いました。今、競輪選手は男女合わせて2340 名ほど、そのうち女子選手は109人です(平成30 年1 月1 日現在)。日本競輪学校は高校を卒業してすぐ入学できるので、早くて19、20歳で選手になれます。約6割が20代、約3 割が30代、最高でも44歳くらいという状況です。20代、30代の選手がほとんどですが、競技年齢が幅広いのも競輪の特徴だと思います。
もうひとつ、特徴的なのは、様々な経歴を持った選手が多いことです。他のスポーツをやっていて、転向した方がたくさんいます。ビーチバレーの選手だった尾崎睦さんは今、競輪界のトップ選手です。スケートやスキー、バレー、ソフトボール、ゴルフなど、たくさんの方が競輪へ転向しています。変わったケースだと、1期生同期の田中麻衣美さんはウエディングドレスのモデルをしていました。その他にも、親善大使をしていた方、アパレル関係、事務職、様々な経験を持った方がいます。私自身も前職は教員です。自転車は、例えば水泳のように小さい頃からやっていないと上達しないというスポーツではなく、機械を使うのでいかに自分が自転車とマッチして操作できるかが大切なので、誰でもできるスポーツです。そんな親しみやすさも競輪の魅力だと思います。
競輪学校で培ったもの
決意して、49歳で日本競輪学校に入学しましたが、とてもきつい日々でした。周りは若い子たちばかり。若い子たちがどんどん新しい記録を出していく中、自分は記録を維持するのが精一杯でした。そこで、「自分にできることは何か?」と考え、小さな目標を立てました。自分は若い子たちより朝が強い。早起きができる。「朝練を毎日やる」「朝練だけは誰にも負けない」と決めました。毎日朝3時、4時くらいに起きて、まず1時間勉強し、その後朝練に行きました。縄跳びでは二重跳びを10回する。それができたら次は20回、30回と回数を増やしていく。体が柔らかくなるように柔軟体操を毎日やる。小さな目標を一つひとつ積み重ねるようにしました。すると、だんだんと「今までできなかったけどできるようになった」と実感することが増えていきました。1年間の苦しい訓練を耐え、無事に学校生活を終えました。ガールズケイリン復活の使命を胸に、歯を食いしばり、同じ夢を持った仲間との学校生活は一生忘れられない、大切な思い出です。
4年9ヶ月の現役生活
競輪選手になってからも小さな目標を積み重ねることで、「私ってすごいじゃん!」「自分にはこんなに伸びしろがあったんだ!」と気付くことができました。
大きな目標だと大変だから、小さな目標を立てて、それをひとつずつクリアしていく。その積み重ねで、自分は輝いてこられました。
平成24年7月にガールズケイリンがスタート。デビュー戦はひと回り以上も年齢が下の選手との対戦。結果は6着でした。その年の12 月には、高松競輪場で初勝利を達成することができました。しかし、平成28年7月に落車で頚椎を骨折し、欠場が続きました。さらに、自転車の楽しさを最初に教えてくれた夫が平成29年2月に他界し、家族の心配などもあり、現役引退を決意しました。
楽しい、でも苦しい5年間でした。故障もあり、5年の間に骨を5本骨折しました。決して楽ではなかった。それでも、この4年9か月が今までの人生の中で一番輝いていた時期です。自分で決めて、やってみようと思って、チャレンジしたこの道は間違っていなかったと思います。
指導者としての新たなスタート
現在55歳。今はガールズケイリンのサポートスタッフをしています。選手の指導や訓練についての仕事で、主に新人女子選手の訓練を担当しています。女子選手の悩みごとや相談の窓口となることも。選手は引退しましたが、こうしてケイリンに携わり続けることができ、嬉しく思っています。
ガールズケイリンが始まって5 年が経ち、結婚・出産をする選手もいます。昨年7月には初めて、出産を経て復帰した選手が出てきました。1年のブランクに加え、育児をしながら選手生活を送るというのは、たくさんの苦労があると思います。まずは彼女に現状を伺って、必要な支援を整えていきたいですね。
彼女に続く人がいて、その人がまたうまく復帰できれば、そのまた次に続く人も出てくると考えています。これからガールズケイリンを目指す若い女性たちに、「ガールズケイリンは良い職業なんだよ」と示せるように、出産・育児を支援する制度をみんなの意見を聞きながら作っていきたいと思っています。
みなさんへのメッセージ
迷った時は、誰でも選べる道ではない方を選んできました。それで今の自分がいるのだと思っています。子育ても終わり、両親も看取った。さあ、これから第二の人生どうしようかな・・・ 旅行三昧もいいかな… という時に、あえて競輪選手の道に進みました。辛い道を選んだと思います。でも選ばなかったら、自分はこんなに輝いていたんだということにも気付くことはできませんでした。4年9ヶ月という短い間でしたが、人生で一番輝いていた時期だったと思っています。輝く自分を見つけるヒントを、私の話から見つけていただければ嬉しいです。